はじめに
「いつまで経っても立ち直れない」と、誰かに言われたわけでもないのに、自分で自分にそう言い続けていた時期があった。うちの子を見送ってから、悲しいという気持ちよりも、「私がもっとちゃんとしていれば」という思いのほうが、気づけば長く自分の中に居座っていた。
これは、その自分を責める気持ちから抜け出す方法を説く記事ではない。ただ、同じように自分を責め続けている人がいるとしたら、その状態のまま少しだけ息をつく場所になればと思って書いている。
あのときのこと
気づいたきっかけ
うちの子の様子が、いつもと違う気がした日があった。ご飯の減り方が少し遅い。動きが心なしかゆっくりしている。そのとき、私は「季節のせいかもしれない」「歳のせいで少しゆっくりになっただけかもしれない」と、自分に言い聞かせるようにして考えないことにした。
今振り返れば、あれは何かのサインだったのかもしれないと思う。けれど当時の私には、それをはっきりと「変化」だと認める勇気も、時間の余裕も、正直なところなかった。忙しさに紛れさせて、気のせいだと思い込もうとした自分がいたことを、私は覚えている。
そのときの気持ち・迷い
うちの子を見送ったあと、しばらくの間は、悲しみそのものに押しつぶされているような感覚だった。けれど時間が経つにつれて、悲しみとは少し違う種類の重さが、自分の中に居座るようになった。「あのとき、もっと早く気づいていれば」という思いだった。
なぜあのとき、様子がおかしいと思った瞬間に、すぐに動かなかったのか。なぜ「気のせいだ」と自分に言い聞かせることを選んだのか。考えても答えの出ない問いを、私は繰り返し自分に投げかけていた。うちの子のためというより、そうやって自分を責め続けることでしか、この気持ちの置き場所が見つからなかったのだと思う。
私が考えたこと、迷ったこと
自分を責める気持ちは、時間が経てば薄れていくものだと、当時の私はどこかで思っていた。けれど実際には、そう単純にはいかなかった。数週間経っても、数ヶ月経っても、ふとした瞬間に「もっとできることがあったはずだ」という思いが戻ってきた。
周囲からは「そろそろ元気になった?」というような声をかけられることもあった。悪気がないことは分かっていたけれど、そのたびに、自分の中でまだ終わっていないものが、外からは終わったことのように見えているのだと感じた。だから、自分を責め続けているということを、あまり口に出さなくなっていった時期もあった。
「私がもっとちゃんとしていれば、違う結果になっていたかもしれない」という思いは、明確な答えが出ないまま、長い間そこにあり続けた。誰かに「あなたのせいじゃない」と言われても、その言葉がすっと自分の中に入ってくることはなかった。頭では分かっていても、気持ちのほうがついていかない、という時期が続いた。
当時の私は、この気持ちにどう向き合えばいいのかも分からなかった。忘れようとすれば余計に強く思い出されるし、かといって考え続けても答えが出るわけではない。結局、自分を責める時間と、うちの子と過ごした時間を思い出す時間とが、区別できないまま入り混じっていた。そのどちらも大切なものではあったはずなのに、当時の私にはそれを切り分けて感じる余裕がなかった。
一方で、同じように長く自分を責め続けている人の話を、少しずつ耳にする機会もあった。何年経っても「あのときこうしていれば」と考えてしまうと話す人。自分を許せるようになったとは言い切れないけれど、それでも日々を過ごしていると話す人。そういう話に触れるたびに、自分を責める気持ちがすぐに消えなくても、それ自体はおかしなことではないのかもしれない、と思うようになっていった。
今の私なら: あの頃の自分に、「気づけなかったことと、あなたがその子を大切にしていたことは、別のことだ」と伝えたいと思う。ただ、当時の自分がその言葉を素直に受け取れたかどうかは、分からない。
今、振り返って思うこと
今、はっきりと「もう自分を責めていない」と言い切れるかというと、正直そうでもない。ふとした瞬間に、あのときの記憶と一緒に、あの自責の感覚が戻ってくることがある。ただ、以前と違うところがあるとすれば、その感覚が戻ってきたときの、自分自身の扱い方だったように思う。
以前は、自分を責める気持ちが湧くたびに、それをさらに責めるようなところがあった。「まだこんなことを考えている自分は、どうかしている」というふうに。今は、その気持ちが湧いても、「まだそう思うことがあるんだな」というくらいの距離で、少しだけ眺められるようになった部分がある。責める気持ちがなくなったわけではなく、その気持ちとの付き合い方が、少しずつ変わっていったのだと思う。
これは、何かを乗り越えたということではないと感じている。ただ、自分を責め続けることに費やしていたエネルギーの一部が、別の場所に向くようになった、というくらいの変化だったのかもしれない。折り合いという言葉が近いのかどうかも、今の私にはまだよく分からない。それでも、あの頃よりは、自分を少しだけ楽にしてやれる瞬間が増えたようには思う。
うちの子の変化に気づくのが遅れたという事実そのものは、今もなくならない。それを消せない以上、私にできるのは、その事実の重さをどう抱えていくかを、少しずつ自分なりに探っていくことだけだったのだと思う。答えのようなものが見つかったわけではないが、抱え方はあの頃より、いくらか自分に無理のない形になってきている気がしている。
もし今、同じ状況にいる人がいたら
もし今、「もっとできることがあったはずだ」という思いを抱えたまま、自分を責め続けている人がいたら、伝えたいことがある。それは、その気持ちがすぐに消えなくても、それ自体はおかしなことではない、ということだ。
人によっては、比較的早い段階でその気持ちと折り合いをつけられる人もいるだろう。人によっては、何年経っても、ふとした拍子にあのときの自分を責めてしまう人もいるだろう。どちらが普通で、どちらが特別ということではないと、私は感じている。
もし、自分を責める気持ちに加えて、眠れない日が続いていたり、日常生活そのものがつらく感じられる状態が続いているようなら、一人で抱え込まず、カウンセリングを専門とする機関や、お住まいの自治体の相談窓口など、話を聞いてもらえる場所を頼ってみることも、選択肢の一つとしてあってよいと思う。それは弱さの証明ではなく、自分を大切にするための一つの手段だと、私は思っている。
おわりに
「もっとできることがあったのではないか」という思いに、明確な答えが出ることはこれからもないかもしれない。それでも、その問いを抱えたまま、日々を少しずつ過ごしていくことはできるのだと、今の私は感じている。
この記事を読んでいるあなたが、今どんなふうに自分を責めていたとしても、それをおかしいと思う必要はない。そのままの状態で、ここまで読んでくれたことに、少しの敬意を込めたい。
一人で抱え込まないために
ここに書いたのは、あくまで私自身の体験に基づく一つの記録であり、医学的な診断や治療法を示すものではありません。 もし当てはまるようであれば、無理をせずに、下記のような窓口にも相談してみてください。
- 動物の体調や医療的な疑問がある場合:かかりつけの獣医師、または地域の獣医師会
- 強い落ち込みや不眠が続く場合:公認心理師・臨床心理士などによる専門のカウンセリング機関
- 心身のつらさが強いと感じる場合:お住まいの自治体の精神保健福祉相談窓口など、公的な相談機関