はじめに

誰にも頼れないと感じた夜のことを、今でもよく覚えています。

うちの犬がシニア期に入り、夜中に何度も起きるようになった頃のことです。看取りや今後の方向性については、家族と何度も話し合いながら決めてきました。それでも、日々の細かな世話や、夜中に様子を見に行くこと、気持ちの揺れそのものは、結局のところ自分一人で抱えている感覚がずっとありました。この記事は、その感覚について書いたものです。誰かと比べて「もっと大変な人がいる」とか「これくらいで弱音を吐くべきではない」とか、そういうことを言うためのものではありません。もし今、同じように「誰にも頼れない」と感じている人がいたら、その気持ちをそのまま置いておける場所になればと思います。

雨の日の窓辺の風景

あのときのこと

出来事の始まり

夜中に何度も起きて鳴くようになったのは、シニア期に入ってしばらく経った頃でした。最初は数日だけのことだろうと思っていたが、それが数週間、数ヶ月と続いていきました。仕事のある翌朝を控えていても、鳴き声が聞こえれば起きて様子を見に行きます。そのくり返しが、当たり前の日課のようになっていきました。

今後どうしていくか、通院の頻度をどうするか、生活のリズムをどう変えるか。そうした大きな方向性については、家族と話し合いながら決めることができました。誰か一人だけの判断で進めているわけではない、という安心感は確かにありました。ただ、実際に夜中に起きて対応するのは、多くの場合、私でした。日中、少し目を離した隙に何かあったのではないかと気になって、家事の手を止めて様子を見に行くことも増えていきました。

振り返ってみると、家族との話し合いは週に一度あるかないかだったのに対して、夜中の対応や日中の見守りは毎日のことでした。頻度そのものが違っていたのだと思います。大きな決めごとは節目節目で相談できても、日々くり返される細かな作業は、相談の対象になりにくいという面もあったのかもしれません。

そのときの気持ち・迷い

不思議なことに、大きな決めごとを一人で背負っていないと分かっていても、孤独感は消えなかったです。むしろ、日々の細かい実務――夜中に起きること、日中の見守り、ちょっとした変化への気づき――が積み重なるほど、自分だけがこの時間の中にいるような感覚が強くなっていきました。

家族に不満があったわけではありません。それぞれに仕事や生活があり、できる範囲で助けてくれていることも分かっていました。それでも、夜中にひとりで様子を見ているとき、ふと「これを誰かに代わってもらうことはできないのだろうか」と思う瞬間がありました。相談すれば方向性は一緒に考えてくれます。でも、目の前の今この瞬間の対応は、結局自分がやるしかないです。その温度差のようなものに、当時の私は戸惑っていました。

今、思うこと

今振り返ると、あのときの孤独感は、誰も助けてくれなかったからというより、大きな決めごとと日々の実務の間にある温度差から生まれていたのだと思います。方向性は一緒に考えられても、目の前の一瞬一瞬を担うのは自分だという感覚。それは、誰かのせいというより、そういう役割の分かれ方だったのだろうと、今の私は捉えています。

だからといって、あの孤独感が間違っていたとも思わないです。大変さを分かち合えていると感じられないまま過ごした時間があったことは、今でも一つの事実として残っています。相談できる家族がいたことと、孤独を感じた夜があったこと。この二つは、私の中で矛盾せずに同時に存在しています。

落ち着いた室内の様子

おわりに

もし今、大きな判断は家族や周りの人と相談できているのに、日々の実務や気持ちの細部では誰にも頼れないと感じている人がいたら、それはおかしなことではないと思います。相談できていることと、孤独を感じることは、私の中では同時に存在していました。

この時間がいつか終わることも、今はまだ実感できないかもしれません。それでも、完璧を目指さなくていいということ、話せる相手は一つの形に限らないということを、今の私は伝えておきたいと思います。