はじめに

あの子がいなくなった日が近づくと、カレンダーを見なくても、なんとなく体のほうが先に気づいているような感覚があります。理由もなく落ち着かなかったり、ふとした瞬間に胸が重くなったり。最初の年は、その日をどう過ごせばいいのか、自分でもよく分からないままでした。

命日や月命日に何をすればいいのか、教科書のようなものがあるわけではありません。この記事では、決まった作法があるわけではない中で、私が続けている小さなことを書いてみます。同じように、その日の過ごし方に迷っている方に、一つの例として読んでもらえたらと思います。

ガラスの器に生けた白と青の小さな花

命日と月命日という区切り

命日は、あの子が旅立った日と同じ月日のことを指します。月命日は、そこから毎月めぐってくる、同じ日付の日のことです。人の弔いの言葉ですが、私は自分の中で、あの子を思い出すための区切りとして受け取っています。

正直なところ、最初はこの区切りを意識することが、かえってつらく感じられた時期もありました。その日が来るたびに、失った事実をあらためて突きつけられるような気がしたからです。それでも時間が経つうちに、区切りがあることで、かえって心の置きどころが定まるような感覚も生まれてきました。悲しむ日であると同時に、あの子のことをまっすぐに思い出していい日でもある。今はそんなふうに感じています。

今の私なら: 区切りを意識するのがつらい年は、日付のことをあえて数えずに過ごしてもよかったのだと思います。思い出し方の濃さは、年によって違っていいのだと、今は感じています。

きちんとできない年があってもいい

月命日を毎月きちんと迎えようとすると、それが少しずつ負担に変わってしまうことがありました。仕事や体調で余裕がない月は、気づいたら日付が過ぎていた、ということもあります。

そういうとき、以前の私は「してあげられなかった」と自分を責めていました。けれど今は、思い出すこと自体に、日付が絶対の条件ではないのだと考えるようになりました。手を合わせられなかった月があっても、あの子との時間が薄れるわけではありません。過ぎたことに気づいた日に、あらためて写真の前に座れば、それでいいのだと思っています。

誰かと分け合えるとき

命日を一人で抱えるのがつらいと感じる日もあります。そんなときは、一緒に暮らしていた家族と、その子の話をするようにしています。おかしかったこと、困らせられたこと、かわいかったこと。悲しい話だけでなく、笑ってしまうような思い出を口に出すと、その日の重さが少しやわらぐことがありました。

周りに同じ経験をした人がいなくて、話しにくいと感じることもあると思います。その気持ちについては、周りに理解されにくいと感じたときの記事にも書いています。誰かに話すことがすべてではありませんが、心の中で手紙のように語りかけるだけでも、その日の過ごし方になるのだと感じています。

夜明けの霧がかかった静かな風景

おわりに

命日や月命日は、失ったことを思い知る日でもあり、あの子がたしかにいたことを思い返す日でもあります。その両方が同じ日にあることを、私はもう無理に切り分けなくてよいのだと感じています。

過ごし方に決まりはありません。花を飾る人も、静かに写真を眺める人も、あえていつも通りに過ごす人も、どれもその人とその子に合った形です。この記事に書いたことも、あくまで私という一人のやり方です。あなたの中に、あなたなりの小さな過ごし方が見つかるなら、それがいちばんいいのだと思います。