はじめに

スマホの中に、まだ開けていない写真があります。そういう人に向けて、これを書いています。うちの子を見送ってから、私はしばらくの間、あの子が写っている写真をまともに見ることができませんでした。整理しなければと思う気持ちと、見たくないという気持ちが、長い間ずっと同居していました。この記事は、写真を早く整理できるようになるための方法を説く記事ではありません。ただ、同じように写真を前にして固まってしまう人がいるとしたら、その状態のままでいてもいいのだと、先に伝えておきたいと思います。

昔ながらのカメラの佇まい

あのときのこと

見られなかった時期のこと

見送ってから、スマホのアルバムを開くことそのものが、しばらくできませんでした。あの子の写真は当然たくさん残っていて、開けばいつでも見られる状態にありました。それなのに、指がアプリのアイコンの手前で止まりました。見たい気持ちがなかったわけではありません。むしろ見たい気持ちのほうが強かったはずなのに、いざ開こうとすると、体のどこかにブレーキがかかるような感覚がありました。

部屋の中の写真立てや、棚に置かれたままの写真も同じでした。目に入るたびに、視線を少しそらすようにしていた時期があります。埃を払うために近づくことはあっても、写っているものをちゃんと見る、ということはしていませんでした。見ないようにしている自覚はあったけれど、それを変えようという気力までは湧いてきませんでした。

そのときの気持ち・迷い

写真を見られないことについて、当時の私は少し自分を責めていました。あんなに一緒にいた時間の写真なのに、見ることすらできないなんて、おかしいのではないでしょうか。そんなふうに思うこともありました。けれど今振り返ると、あれはおかしなことではなかったのだと思います。写真を見るということは、あの子がもういないという事実を、もう一度目の前に突きつけられることでもありました。心の準備ができていない状態でそれをすることは、ただ苦しいだけでした。

見なければ、という焦りもありました。データが消えてしまったらどうしよう、という漠然とした不安もありました。それでも、見ることそのものが怖かったです。見たい気持ちと、見るのが怖い気持ちの間で、結局どちらにも動けないまま、時間だけが過ぎていく時期がありました。

私が考えたこと、迷ったこと

写真を見られるようになるには、何かきっかけが必要なのだろうと、当時の私は思っていました。区切りになるような出来事があって、そこから急に写真を見られるようになります。そんなふうに、どこかで物語めいたものを期待していた部分があったと思います。

けれど実際には、そんなにはっきりしたきっかけはありませんでした。ある日を境に見られるようになった、というのではなく、気づいたときには少しだけ見られるようになっていた、という方が近いです。いつからそうなったのか、今でも自分でもうまく説明できません。写真フォルダを開いて、数枚だけ見て閉じます。そのくり返しの中で、少しずつ滞在できる時間が延びていったのだと思います。何かが劇的に変わった瞬間があったわけではなく、気がついたら少し違う場所に立っていた、という感覚のほうが近いです。

見られる時間が少しずつ延びていく一方で、後戻りする日もありました。数日前より長く見られたと思った翌週に、また一枚も開けない日が来ることもありました。そのたびに、また振り出しに戻ったのかと落ち込みそうになったけれど、今思えば、それも含めて一つの流れだったのだろうと思います。

今の私なら: 写真を見られるようになるまでには時間がかかりました。でも、その時間があったから少しずつ整理を始められたのだと、今は思えます。

今も犬と暮らしています。今の子の写真は日々増えていくし、それはそれとして自然なことだと感じています。ただ、あの子の写真を見られるようになったことと、今の子と暮らしていることは、私の中では直接つながっていません。今の子がいるから見られるようになった、というのでもなければ、今の子がいても見られない時期は見られませんでした。二つは別々のところにあるものとして、今も同時に存在しています。

フィルムロールの静物

整理を始めた日のこと

写真を見られるようになってからも、整理を始めるまでには、さらに間がありました。見ることと、手を動かして整理することは、私にとっては別の行為でした。見られるようになった、というだけでは、フォルダを作ったり、選んで残したりする作業には、まだ気持ちが向かいませんでした。

整理を始めた日のことは、比較的よく覚えています。特別な日ではありませんでした。何かの記念日でもなく、思い立った理由も、これといって説明できるものではありません。ただその日は、スマホの中の写真を、なんとなく順番に開いていく気になりました。ぶれた写真、同じような角度から撮った写真、何を撮ったのか分からない写真。そういうものが、思っていたよりずっと多く残っていました。

一枚ずつ開きながら、これは残す、これは分からない、と手を止めながら進めていきました。作業としてはただの整理だったけれど、やっている間の感覚は、それだけではありませんでした。一枚の写真の前で手が止まって、しばらくそのまま動かせなくなることが何度もありました。あの日の空気や、その場にいたときの音のようなものが、写真越しに少しだけ戻ってくる感じがしました。

整理をしながら、これは忘れるための作業ではないのだと、途中で気づきました。減らしていく作業のようでいて、実際にやっていたのは、あの子と過ごした時間をもう一度手元に置き直すことだったのだと思います。要らない写真を減らして、残すものを選ぶという行為の中に、あの子との時間をどう抱えていくかという、私なりの向き合い方があったのかもしれません。

今、振り返って思うこと

今は、あの子の写真を開くことができます。ただ、いつでも同じように穏やかに見られるかというと、そうでもありません。ふとした拍子に、また見られなくなる日があります。そういう日があっても、以前ほど自分を責めなくなったように思います。見られる日もあれば、見られない日もあります。それが今の自分の状態なのだと、そのまま受け止めるようになりました。

整理も、一度で終わったわけではありません。今もときどき思い出したように、少しだけ手を加えることがあります。区切りをつけるための作業というより、その時々の自分の状態に合わせて、写真との距離を測り直しているような感覚に近いです。

もし今、同じ状況にいる人がいたら

もし今、あの子の写真を開くことができずにいる人がいたら、それは無理に変えなくてもいいことだと、私は思っています。見られるようになるまでの時間には、決まった目安があるわけではありません。人によっては早い段階で見られるようになるかもしれないし、人によっては長い間、開けないままかもしれません。どちらであっても、それはその人の時間の流れ方でしかないと思います。

整理も同じで、始めるタイミングに正解はありません。始めたとしても、途中で止まってしまってかまわないと、私は感じています。

秋の光が差す窓辺

おわりに

今も、開けない写真がいくつか残っています。それを無理に見ようとは思っていません。見られる写真と、まだ見られない写真が、どちらも同じスマホの中にあります。それでいいのだと、今の私は思っています。この記事を読んでくれたあなたにも、写真との、あなたなりの距離の取り方があるのだと思います。