はじめに

うちの子を見送ってから、悲しみそのものよりも「このことを誰に、どこまで話していいのか分からない」という感覚に、長く戸惑っていた時期がありました。話しても伝わらないかもしれません。そう思うと、口を開く前に言葉を引っ込めてしまうことが増えていきました。

これは、誰かを責めるための記事ではありません。ただ、同じように孤立感を抱えている人がいるなら、その感覚には理由があるし、無理に人に理解を求めなくてもいい、ということを書き残しておきたいと思っています。あくまで私一人の経験の範囲でしかないけれど、もし今、似たような戸惑いの中にいる人がいたら、読んでもらえたらと思います。

誰も座っていないベンチ

あのときのこと

話すたびに感じた温度差

うちの子を見送った直後は、身近な人に近況を話す機会が何度かありました。多くの人は言葉をかけてくれたし、その気持ちをありがたく思う一方で、話しているうちに、うまく言えない違和感を覚えることが増えていきました。

職場では、数日休んだあと「もう大丈夫?」と聞かれることが多かったです。悪気があってのことではないと分かっています。ただ、自分の中ではまだ何も整理がついていない段階で、まるで一区切りついたことを前提に話しかけられているような感覚がありました。知人との会話でも、似たようなことがありました。少し込み入った事情を話そうとしたとき、相手の表情が一瞬戸惑うのを見て、それ以上続けるのをやめてしまったこともあります。

はっきりと否定的な言葉を向けられたわけではありません。それでも、一度だけ、ペットと暮らしたことのない知人から、そういう趣旨の言葉を向けられたことがありました。命の重さを比べるような言い方だったと思います。その場では特に反論せず、話題を変えました。ただ、その一言は、しばらく自分の中に残り続けました。

話すことをやめた時期

そういうやり取りが重なるうちに、自分の状態をそのまま話すことを、少しずつ控えるようになっていきました。聞かれれば「落ち着いてきた」とだけ答えて、それ以上は話さないです。そのほうが会話がスムーズに進むし、相手にも気を遣わせずに済むと感じていたからだと思います。

ただ、話さなくなったことで楽になったかというと、そうでもなかったです。むしろ、自分の状態を誰にも共有できていないという感覚が、別の重さとして積み重なっていきました。周りには特に困っていないように見えていたはずだけれど、自分の内側では、うまく居場所を見つけられずにいるような感覚が続いていました。

今の私なら: 話さないことを選んだ自分を、無理に変えようとは思わないです。ただ、話せる相手が身近にいなくても、他の場所を探してよかったのだと、今は思っています。

今、思うこと

孤立感というのは、悲しみそのものとは少し違う種類のつらさだったと、今振り返って思います。悲しみは、うちの子がいなくなったという事実そのものから来るものだったけれど、孤立感は、その悲しみを誰とも共有できていない、という感覚から来るものでした。

今の私は、周りの人全員に自分の状態を理解してもらう必要はない、と考えています。理解してくれる人が少なかったとしても、それは自分の悲しみの重さや、うちの子と過ごした時間の価値を否定するものではありません。話せる相手が身近に見つからなくても、他の場所に、同じような気持ちを分かってくれる誰かがいることもあります。

静かな窓辺の風景

おわりに

周りに理解されないと感じたとき、それは自分の悲しみ方がおかしいということではないと、今の私は思っています。ただ、経験の重なりがない相手には、伝わりきらないことがある、というだけのことなのだと思います。

この記事を読んでいるあなたが、今、誰にも話せずにいる状況にあったとしても、それはそのままでいいです。話す相手や場所は、身近な人間関係の外にも見つかることがあります。そのことだけ、覚えておいてもらえたらと思います。